昭和54年12月10日 月次祭



 今日は御本部の報徳祭、布教功労者の慰霊祭を拝ませて頂いて、帰らせて頂きましたが、愈々この16日がこちらの報徳祭でございます。ここでは布教功労者ではなくて四神様のお祭り。三代金光摂胤の君のお祭りと、二柱のお祭りでございます。ご存知のように九州に道が伝わったのも、二代金光様、四神貫行之君の神様の御信心によって桂松平先生が小倉に道を開かれたのが始まり。
 四神様、九州の大恩人とこう言われておられます。もう今日は私報徳祭を拝ませて頂いてたびたび思うんですけれども、報徳祭はほんとに四神様のお祭りだ、九州のお祭りと言われて、まぁそれこそ教祖大祭よりも、にぎやかな参拝が出来たと言われております。もう、本当に九州からのお参りが大変少なかったですね。もう一つおかげを頂かなければなりません。勿論私達の様に三代金光様あって合楽に道、道が開けたと言うても矢張り過言ではありません。
 三代金光様のお言葉がなかったら、とても私は道の教師にもお取立て頂かなかったでしょうが、今日の合楽はなかったと思う。そりゃ様々な事がございましたけれども、18年間もう本当に金光教神愛会で、お道の教師にもお取立て頂かれる、教会としても認められる。まぁ辛抱の年月でございましたけれども、もう何時でもどんな場合でも「お道の教師としておかげを受けられたら結構です」という、三代金光様のお言葉があったればこそ、今日合楽があるのです。
 だから三代金光様は合楽の大恩人だと言う風に頂いております。そのお祭りがこの16日にございます。それにはやはりお祭りを頂く。今日奥城でお礼を申させて頂いておりましたら「年に一度の大バーゲン」という事を頂いたんですけれども、なるほど報徳祭というのは、年に一度でございます。ね、10月の16日には、あのように盛大に教祖大祭を奉仕させてもらいましたけれども、ね、報徳祭は年に一度の言うならば、ご大祭ご大祭というのはまぁデパートあたりで言う大バーゲンにも当たる様なものです。
 本当に真心を込めて奉仕させてもらい、真心を込めてご大祭を拝ませてもらうと言う事は、勿論奉仕の真を尽くさせて頂くのでございますから、もうそれこそ帰りに皆船にも車にも積めぬ程の御神徳を頂いて帰りたい、頂きたいという風に思うんです。ただ今神様にご挨拶を申させて頂いておりましたら、柿がこういっぱいなっているんですけれども、その柿が皆吊るし柿の、のこう、がなってるんです。
 そんな事はあり得ませんがね、実際は。あれはなっておるままになったら熟柿になって、そしてまぁ落ちるより他に無いのです。あれが吊るし柿になっておるという事は、どういう事であろうかと、私は改めてこの頃から次々と、柿のお知らせを頂きます。今日も奥城でその吊るし柿のてんぽらを頂きました。東京では「てんぷら」という、私共はてんぽらと申しますよね。
 今日昨日は福山のご信者さん方の集会で一日あちらで御用にお使い回しを頂きました。この度の12月10月の16日に、15日の日に、皆さん精一杯の事をなさっておられたから、今度はちった少ないだろう。と言うておりましたら、いやぁもうさっきからもう廊下に、隣りの部屋が信者さん方の控えになっているんです。大きな控えの松野屋旅館という大きなホテルです。
 その7階一番上の方が日本間が二つある。私共の部屋をこちらへ、隣りの部屋にご信者方が控えておられます。もう部屋に入らずに廊下に並んでおられますと言う、私はもうほんならと言うて、障子を取ったり、その廊下にまでいっぱい並んで頂いてお話を聞いて頂いたり、お取り次ぎをさせて頂いたりした事でございました。こちらから、まぁそんな事がないもんですからこちらでは、あのうっかりしてましてね。
 汗が出よる、とにかくあの一人一人のお取り次ぎをお願いすると言う事でございましたから、今度はご神米を50体頂いて行っとったら良かろうと思うて、50体を頂き、行っとりました。それももうなに一人一体づつ下げる事に、あいっぱいでしたから。ちゃんとあのお初穂を奉れるのが50人、50体のご神米でおかげを頂きました。そういう具合におかげを頂いておるというのが、そのご信心のない方達が、今度はその私があちらへ行く事を聞き伝えてお参りしておられる方達と。
 まぁ奥さんが信心をされるならばまた、信心をされるならば、その奥さんが見え主人が見え、又は信心のない子供達も、お取り次ぎお願いをしたい、お話を聞きたいというておったのが、今日も矢張り、昨日もそんなに沢山の人が集まれる事になったんです。それからもう、はぁこの前はあの大変なような事が増えるとか言うてございました、今度は手落ちのないようにと言うて、皆さん心使うて下さって、もう本当に勿体ないようなお取り扱いを頂いてから帰らせて頂きましたが。
 今朝方からもう朝食を旅館の方では、朝早いから出来ません。それでご信者さん方が、もう下からまるきりお供えをするように10人位の方達が、鍋を持ってくる人、花を持って来る人。お昼のお惣菜という風に、あのそれももうたかだかとこう持ってからお供えをするようだったと言うて皆が申しておりましたが、もうたった私共3人ですからそんなに頂けないけれども、皆さんの思いがそこに込められての、まぁ朝食を頂きましたが、お重が三段か四段のお料理いっぱい、色々おごちそうが作ってございます。
 もう一切れづつでも頂かなければと思うて、まぁ頂いたんですが、中に吊るし柿の、もう一見吊るし柿に見えるような、あのてんぽらがございました。美味しく出来てました。そのてんぽらの大きいてんぽらを、今日奥城で、御祈念中に頂いたんです。私が一時愕然といたしました。というのは、ね、てんぽらのお知らせは中身が出来ていないという意味の時に頂くんです。ね、あのてんぽら工事と申しましょう。
 そりゃそのまぁいい加減な事をしておると言ったような時に、てんぽら工事という風に申しますから、私の信心の中身がいい加減なもんだと、というような、あ、思いで、もう本当に愕然といたしましたが。私の信心をこれで良いとも、立派だとも思いもしませんけれども、ね、思うて見れば思うてみるほど、成程私のてんぽらは本当のものじゃないてんぽらという風に、思わせて貰いました。
 そしたら神様がそれこそ、この辺の言葉で「てんぽら」と頂いたんです。字で「てん」というのは天保元年とか天保何年というんで、あの天保。天という字と保つという字と、「ら」は羅生門の羅をこう頂いた。ね、これでよいとか私は出来とると言う心におかげはない。なんぼ尽くさせて頂いても、尽くさせて頂いてもこれで良いと言う様な事はない。どれだけ尽くしても足りないと言う頂き方。
 確かに合楽の信心は深く、これで良いと言う事はない。限りない言うならば、本当から愈々本当を求めて信心を勉強させて頂いておるのが今日の合楽の信心でございます。で言うならば、今日の言わばごひれいである。是がより本当なものになって行けば行くほどに、偉大になっていけばなって行く程に、沢山の人が助かって行き、沢山のぉ言うならば世界万国にそのごひれいも輝き渡る様なおかげにもなると思うんです。
 だからこれで良いと言う事ではない。より本当の事を、より本当を求めて行く、そう言う心にね、神様が何時も保証して下さるというか、天が保って下さる。出来んでも出来たかのようにしておかげを頂けておるのが今日の合楽であると言う風に思うんです。今日はあのえぇ合楽独特の大黒様が、いくらもあそこにお祭りをしてございましたが、合楽の福神様は右もちじゃなくて左もちの、ね、打ちでの小槌が左に持ってある。
 これはもう何十年も前に永瀬さんが福岡に、お勤めになっておられる頃に、まぁどこでどういう風に発見されたか知らんけども、親先生の事を大黒様と言われるからと言うのでその珍しい大黒様が手に入ったというてお供えになったのが原形になっております。その大黒様が、それこそ一寸この位の大黒様ですけれども、私の部屋に、の飾り棚の中に何時も入れ、あの入れてございます。
 それがこの左もちなんです。だからあれを原形にして、あのワザワザ四国の大黒様作りの名人の人が作ってくださる、それを井上さんがいつも御用して下さるわけなんです。四神様が九州の、地に桂松平先生をお差し向けになった時に『福神をこの家の内に祭りなば、家に宝の尽くる事なし』と言う歌をそえて、福神をお祭りしていくのが、福神様を九州の地に広げるんだと言われたというお話が残っとります。
 まさしく教祖金光大神様は今日もあそこにお供えがあっておりましたが、福徳長です。福徳の長です。教祖金光大神様、ね、その代を重ねて行くうちに、合楽でも言うならば、その手代わりとしての私。その手代わりとしての福神、大黒様としてここでは皆さんが沢山奉斎をなさっておられます。ね、そしてまぁ言うならば、不思議なおかげを皆さんが頂いております。どうでも皆さんにはですね、それこそ内に宝の尽くる事のない程しのお徳を頂いて頂きたいと思うんです。
 今日も秋永先生から、帰る道中で聞かせて頂いたんですけれども、私共はやはりもう一日早く御本部に行っております。全国から主だったご信者ばかりの集会が、教官そして九州の教務所長である大久保先生を講師としての、もうそれこそみっちりとした、いかにして御道の信心を盛んにするかと、今後の金光教のあり方について、布教についてのお話し合いがあったという事でございます。
 今日私はご大祭を頂きます前に、あの皆さんも頂かれたでしょう、小さいあのパンフレットが銘々にわたりました。それに言うなら教話ですかね、おかげ話がのっておりましたが、お読みになったでしょうか皆さん、読んでみてください。あれが今日の金光教だと言う風に思うんです。終戦直後ある教会の先生が親子の物もらいがやって来た。ご飯を食べてないからご飯を頂きたいと言うたけれども、それこそ自分達でも不自由しておるとにどうしてやられるか、と言うて追い帰された。
 御結界に奉仕しておられたそのお母様、というその先生が、それを聞いて御結界からおりてこられた。それから勝手に行っておにぎりを作って、それこそ麦ご飯のおにぎりを作って帰りかけておる、その親子に追い掛けて持って行ってやられたと言う。そういう話が出ておりました。本当に胸が熱うなるような、あのお話なんです。またそうそういう母親の信心を見せて頂いて、まぁ尊い事だと思わせて頂いたが、ある時に駅に行ったら、まぁあの時分はこの汽車が行ったら、まぁ明くる日まで待たなきゃならない。
 はぁ困ったと言うておる、そのおばあさんに行き会われて、なら私の方のお教会にいらっしゃい。私のお教会に、今日お泊りになって、そしたら明日発ちなさいと言うて、まぁ親切をしてあげたと。と言う様なお話。まぁ言うならば浅い、いやその何て言うんでしょうかね、言わばまぁ清涼ざいの様な感じが致します。ね、確かに素晴らしいお話ですし、私共の心も、温まりまた清まるようなお話なんですけれども、ね、これではね言わば人が助からんのだ。
 それこそ今日私が頂きました、ね、その柿がなっておる、その柿が吊るし柿のようになっておる所を頂いてです、ね、なったまま吊るし柿にはならんのです。この事を先日、寄せ書きの一言の中に「人、仁、神」という事を頂きました。人と言うのは人という字、次の仁は人偏に、こう二を書いた、仁徳天皇の仁であります。ね、次は神様の神、神です。「人、仁、神」とね、まぁ信心のない人が人であるならばです、信心させて頂くようになり、いやこれは信心はしなくても。
 やっぱ世の中には神様のような人じゃ、仏様のような人やらございます。ね、いわゆるこの仁という字はどういう意味の事かと言うと、博愛という事だだそうです。思いやるという事だそうです。ね、仁という字。ね、だから思いやりがどんなに強かっても、ね、博愛の心が強かっても、なるほどそれによってお互いが親切に思う事は出来ましょう。けれどもそれによって、おかげを受けると言う事とは別なんです。ね、
 世の中に仏様のような人じゃ、神様のような人じゃというても、次々難儀な事が起こってくる。「信心しておかげを受けるのは別ものじゃ」と仰る、信心というのはどこまでも、最後の神なんです、わか心が神に向かうと言う事なのです。ね、この神に向かう心、いわゆるこういう信心でなからなければお徳も受けられないし力も受けられない、おかげにもあやからせて頂く事が出来んのです。
 私は今の金光教の傾向はもう、ほとんどがそれだと思うです。ね、人間が人間らしゅうという事はそういう事じゃないんです。お互いが親切にし合うとだけではいけんのです。どうしても御神徳を頂いて、言うならば人間の力にみきりを付けて神、神力にすがる、そこから湧いてくる人力によらなければ言うならば、どんなに教団全体の者が打って一丸になって今言われておる方法論では、金光教は発展はしないと言う事なんです。それよりも早道なのはです、お徳を受ける手立てなんです。
 光を受ける手立てなんです。そんならその力を受けると言う事。お徳を受けると言う事はどう言う事なのかと、一番それは間違いのない生き方は今合楽で言われておる合楽理念を元にしての信心生活になる以外にないです。「天地日月の心になる事肝要」と仰る、その天の心地の心をいよいよつまびらかにし、その日月の心を日月の心たらしめる生き方なんです。実意丁寧いわゆる神信心なんです。
 そういう信心でなからなければです、ね、それは人間の力の範囲では頂かれましょうけれども、神様のおかげというのは私共がそれこそ夢想だにしない、夢にも思わなかったというようなおかげが示現していくという事なんです。合楽のごひれいなんかは、とても10年前に、又20年前、30年前に今日の合楽がこのようなおかげを頂くと言う様な事は夢、思った人はなかったでしょう。
 なるほど大坪さんの信心な素晴らしいと、例えば言われておった時代でも、とてもこういう事になるとは思わなかったでしょう。所が限りなくどこまでも、この調子で行くならばです、愈々おかげを頂いて行く事であろうと思われるようなごひれいが今日合楽教会に、おかげを頂いておるという、その事実から。そこでですね、こりゃ皆さんにお願いをするわけですけれども、んならそんならば教会自体はそうしておかげを頂いておるんだけれども、ならご信者の一人一人の皆さんがです。
 矢張りそういうおかげを頂いて頂かなければ、言うならば教会としての実証にはならない。大坪さんのは特別だとこう言うたらもうそれでお終いである。特別じゃない信者の一人一人がそういう徳を受け、力を受けてああいう一つ徳ならね、尽きる事のないこの福神を祭りなば内に宝のつくる事なし、というほどしのお徳を頂いていただかなければならない、その福徳長のおかげにあやからせてもらわなければいけないという事なんです。ね、素晴らしいでしょう。
 今日皆さんがパンフレットを頂かれたその内容を見るとです、読んでいく中にです胸が熱うなるような思いがしますよね。御結界のそのおばあちゃんの先生が、その息子が断った、その親子の物もらいに、ね、追い掛けて行っておにぎりを持って行ってやられたとか。もう今晩一晩駅で明かさなければならない、というおばあさんをですそんなら自分の家に来てお泊まりなさい、というその親切をすると言う事はです、成程清涼剤のような感じがするんですけれども。
 その清涼剤では身にも、力にも血にもならないと言う事なんです。だからね信心でおかげを頂くと言う事は言うならば、人から仁になり、そして神に向かっていくという信心過程をたどったところの信心でなからなければでけんのです。渋柿もね千切られて皮をむかれて吊るされて、ね、初めて甘くなるのです。しかもその干し柿というのは、何時まで置いても悪くならないものなんです、いわゆるお徳なんです。ね。
 信心しとるから合楽という気になってさえおれば、いつか徳になるだろうと言う様な事は絶対ありえないです。ちぎられなければ、皮をむかれなければ、ね、そして吊るされなければ。渋がぬけていくに従って、甘くなっていくという、しかもその甘くなったそのおかげは、おのまま何時まで置いても悪くならないお徳の世界で、ね、それでね千切られる事をいとうたり、剥かれる事をいとうたり。吊るされる事をいやだと言うたんでは、お徳にならんのです。
 いやその事はむしろ有り難いのです。勿体無いのです。自分くらいな者を神様が、ね、このようにしてお使い下さるんだ、このようにして徳を下さるんだ、力を下さるんだと思うたら、それが分かったらそれこそ一切が神愛と分かるのですから、その事を合掌して受けて行く以外にはない、という生き方をです愈々身に付けなければならないと言う事でございます。いかに合楽理念が完璧の、いうなら教えであるというても、言うておるだけ覚えただけではいかんのです。
 そこでんなら皆さんにお願いして、私が致します事はです皆さんがそれを本当に実験実証者としてのです、ね、おかげを頂いて頂きたい、お徳を頂いて頂きたいと言う事でございます。そして福山支部の集会じゃございませんですけれども、先々月の時にはあれだけの人数であったのが、ね、二月後の今日では、ね、あれだけ沢山の人がそれこそ、ね、有り難いという話を人から人へ伝えて新たな方がお参りをして来ておる。今度は合楽にもどうでもお引き寄せを頂きたいと言っておる。ね。
 そしてそれが信心のなかった家内に、信心のなかった子供達にも伝わってきておるのが、言わば廊下でお話を頂かんならんと言う様な、段々繁盛のおかげを頂いておる。皆さんの周囲にです、だから本当におかげを頂かなければ人はついてこないと言う事です。愈々16日の報徳祭にはです、そう言う様な信心を持って今度の報徳祭を奉仕させて頂きたい、皆さんもそのおつもりで、ね、とにかく一人でも多くの人を、それこそ示現活動させて頂いて、四神金光様へ又は三代金光様へ報恩の真を捧げたいと思います。
 そして愈々言うならば力を受けて行く信心を身に付けていくと言う事を楽しみに信心を頂きたい。合楽にこうやって参ってさえおれば何時か徳になると言う様な事は絶対ないです。私のご心眼にはなっておる柿がそのまま、徳になあいわゆる干し柿になっておる、干し柿になっておる様相じゃいかんですけれども、ね、やっぱりもぎ取られるね、皮を剥かれる。そして吊るされる。それで始めてその渋柿も甘くなるような。
 お徳が受けられるのです。ならもぎ取られる事も皮を剥かれる事も、吊るされる事も全部がお徳を受けさせたい、力を与えたい。億万長者にもさせてやりたいという親心なのですから、その親心を信心の悟りというのは、私は親心を悟ると言う事だと思うです。そこから今まで辛いなと思うておった事がです、ね、有り難いという事になって参ります。もう不思議にね自分の心の中に有り難いというものがこう、湧いてまいりますよよみがえさせてまいりますとね、きつい事がきつくないですそして有り難いです。
 そういう信心を頂いていくね、愈々身に付けていきたい。そして皆さんが実証して頂きたい。今教団で言われおる信心は人から仁の所を、ね、人間いうなら博愛の心に満ちた信心させて頂くならこのように親切にならなければならない、といったもん所に一生懸命のように感じられます。合楽の場合は少しは馬鹿んごと言われる事もあろう。いや悪くとられる事もあろうけれども、そこん所が吊るされたり、ね、干されたりしておる場合でございましょうから、ね、もうどこまでも一途に神心を求めての信心。
 いわゆるじん「人、仁、神」の最後のこの神。その最後の神というのはもう今日からただ今からでもその気になれば出来る信心なんです。ね。わが心が神に向かうと言う事なんですから、信心とは。その信心から遠ざかるとなるほど評判は良いけれども人が助からんと言ったような事になりかねないです。ね。一時は評判が悪かってもね。悪口知らんのですから。悪口言われても良い。それこそ神が顔は洗うてやると仰せられるそのおかげこそがお徳なんです。神様から言わば頂くおかげ、自分達の、ね。
 人仁のおかげでは言うならば限りがある。ね。そこに私共が潔うみきりを付けて、ね、愈々神の信心へと進んで行かなければなりません。決して合楽にご縁を頂いておるから、吊るし柿になると言う事ではありません。ね、矢張りそこん所を通らせて、一つの過程を通っての、初めて御神徳を受ける事が出来るです。ね、その人達が合楽に一杯出来た時にです、これは合楽を一つ改めて見直さなければならないと言う事にもなるでしょう。合楽示現活動に参画する。そういう素晴らしい信心が教団の中にも入って、そして広まっていくおかげを頂きたいと思います。
   どうぞ。